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偉大なるワンマン経営者 山内溥さん3つの功績 その1 ゲームビジネスの確立


さる9月19日、任天堂の前社長 山内溥さんが逝去されました。

ビデオゲームが勃興する以前から辣腕をふるい、
京都の一花札屋であった任天堂を世界一のゲームメーカーに押し上げた傑物であっただけに、
その死は多くの人に惜しまれています。

しかし、山内さん自身はゲーム開発には携わっておらず、2002年には社長の座を岩田社長に譲って引退したため、山内溥という人物がゲーム業界に対してどのような貢献をしたのか、
近年の若いゲーマーで理解している人は少ないかもしれません。


山内さんの功績を挙げればキリがないのですが、それらを集約すると次の3点に絞られると思います。

その1 ゲームビジネスのビジネスモデルを確立した
その2 唯一無二の人材をしかるべきポストに登用した
その3 娯楽屋としての哲学を任天堂に根付かせた

それぞれの功績について、3回に分けて詳しく見て行きます。



功績1 ゲームビジネスのビジネスモデルを確立した

コンシューマーゲームのビジネスモデルというのは、簡単に書くと以下の流れです。

有力かつ良質なソフトを用意して、ハードとともにユーザーに買ってもらう

普及したハードにサードパーティがソフトを供給する

サードパーティからロイヤリティを受け取ることで、ソフト以外の収益も得る、
サードのソフトでさらにハードの普及が進む



ビデオゲームのビジネスモデル自体は任天堂のオリジナルではありませんが、
ハードメーカーとしては後発ながら、ビジネスモデルを我が物にした実績はさすがだと思います。


ビジネスモデルの確立=任天堂機器のシェアの確立ということですが、
どうやって任天堂が数あるゲームハードの中でシェアを広げていったのかを見てみます。
その立役者となったのは、もちろんファミコンです。



要因1:普及しやすい価格の実現

ファミコンは1983年7月15日、定価14,800円で発売されました。
この価格は当時発売されていた他社のゲームハードと比べると非常に安価です。
この頃のゲームハードは3~5万円くらいするものが珍しくありませんでした*1

*1 例えば1982年にトミー(現タカラトミー)から発売された「ぴゅう太」は59,800円もした!

他社ハードが「コンピュータ」としての面を強調されていた部分も大きかったのに対し、
ファミコンはあくまで「玩具」としての立場をとったため、安価で普及しやすい価格を実現させたのです*2

*2 価格だけで言えば、1981年にエポック社から発売された「カセットビジョン」のほうが安価である(12,000円で販売)。ただ、ハード性能はファミコンのほうが上であり、またエポック社はサードパーティの参入を認めていなかったのでソフト供給力の面でもファミコンには全くかなわなかった。

元々は1万円を切るよう開発陣に命令していたという話ですから、
山内さんの価格に対するこだわりは相当なものだったのでしょう。

ファミコン以前の玩具を売り出していた経験から、
多数の人に普及させるには安い価格が絶対条件だということも、
経験としてわかっていたのかもしれません*3

*3 ただし、ゲーム&ウォッチの経験として、多少高くても(ゲーム&ウォッチは定価5,800円。玩具としてはやや高めの価格設定だった)面白ければ手にとってくれるということも理解していた。
ファミコンの14,800円は、コスト削減の限界点と普及可能な価格帯との絶妙なバランスの上で成り立っていたんではないだろうか。




要因2 サードパーティの参入

ハードはもちろんソフトの方も重要です。むしろソフトのほうが重要性は高いです。
任天堂自身が優秀なソフトメーカーだったことに加え、1984年の「ナッツ&ミルク(ハドソン)」を皮切りに、
サードパーティから多数のソフトが発売され、ファミコンの普及を後押ししました。

ナッツ&ミルク
初のサードパティ製ソフト「ナッツ&ミルク」


他社ハードではサードパーティの参入を認めていなかったところがほとんどなので、
ファミコンはソフト供給力の面で大きく差をつけることができたのでした。
ファミコンがシェアを大きく広げられた一番の理由はこれになるでしょう。



要因3 ソフトの質の確保

多数のソフトが発売される一方で、山内さんはソフトの質の確保にも腐心しました。
ファミコンが発売された1983年当時、アメリカではアタリショック*4の爪痕がまだ色濃く残っていました。

山内さんはアタリショックを教訓に、ソフトの粗製乱造を防ぎ、
一定の質を確保するような体制を敷きました。
いわゆる一つの任天堂チェックというやつです。

*4 1980年代初頭に起こったゲーム業界のバブル崩壊的事件。
当時アメリカのコンシューマーゲーム市場は「出せば売れる」状態であったため、
本来ゲームとは何の関係のないメーカーまでもがソフトを発売していた。
そのために市場にクソゲーが溢れ、次第に消費者にそっぽを向かれ、市場は崩壊した。
アメリカのコンシューマー市場が復活するのはNES(ファミコンの米国での名称)の登場を待つことになる。
この時期のクソゲーとしては、映画原作の「E.T.(1982年・アタリ社)」が有名。


また、サードメーカーが1年間に発売できるソフトを3本までにするという取り決めを制定し、
安易にソフトを出させないようにもしました*5

*5 ただし、ナムコなどの例外はあった。

それくらい、ソフトの質の確保に躍起になっていたのです。
アタリショックの惨状を見ていただけに、山内さんとしては当然の施策だったのではないでしょうか*6

*6 ただし、これについては当然サードメーカーにとっては不満だったようで、
ファミコン後期になると、ハドソンやナムコがPCエンジンへのソフト供給をするなど、
反発も招いたようだ。


もっとも、ソフトの質と言っても、ゲームがきちんと動くがどうかとか、同じような内容をロムだけ換えて販売しようとしていないかなど、商品未満のソフトが市場に出るのを防ごうとしただけであって、面白くなければ発売させないということではなかったようです。

ファミコンは多数のソフトが発売されたぶんクソゲーも多いですからね。もちろん名作も多数ですが。

逆に言えば、アタリショック以前はそういう商品未満のソフトも堂々と発売されていたわけです。
山内さんの施策もさもありなんかな。



以上のような要因によって、「面白いソフトでハードを普及させ、普及したハードにサードメーカーがソフトを投入し、それによってさらなるハードの普及を見込む」という現在のゲームビジネスの形が確立されたのです。


次回は山内さんの人を見る目がいかに卓越しているかを執筆しようと思います。
個人的にはこの部分が山内さんの一番の功績ではないかと考えています。



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Author:こひきち
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